医局員コラム

山田瑞穂先生のこと 大阪大学大学院医学系研究科分子病態医学
皮膚科教授 片山一朗

 先日和歌山医大皮膚科のホームページを見ていたら古川教授のコラムに山田瑞穂先生の随筆が掲載されていた。(下記)

「山田瑞穗 (浜松医大名誉教授、皮膚科学、副学長)
「私の歩んだ道」11
皮膚病診療:Vol.24, No.10; 70~1174, 協和企画(2002)」

 山田瑞穂先生は浜松医大の初代教授として1977年に着任され、1990年に退官後は病院長、副学長も務められ、2004年1月4日ご逝去された。私自身、山田先生に直接ご指導をうけたことはないが、初めてお目にかかったのは西岡清先生(当時大阪大学皮膚科助手)とご一緒に開講間もない浜松医大皮膚科で開催された皮膚免疫セミナーに参加した時だったと記憶している。セミナー前に教授室や研究室(何もなかった?)を案内していただいた。教授室に飾られたボトルシップと免疫セミナーがやたら難しかったことのみを記憶している。今回山田先生の随想を拝読し、当時のことが懐かしく思い出された。今の時代山田先生を知る若い人は殆ど居られないと思うし、あのような経歴の中で志を高く持たれ、人間的な魅力に満ちあふれた山田先生のような教授が誕生する可能性はゼロに近いと思うが、若い先生に山田先生の生き方も大いに参考になるかと思い、一部下記に引用し、紹介させていただいた(興味のある方は和歌山医大皮膚科ホームページにアクセスすると、原文が読めます)。あわせて古川教授のボスだった京都大学名誉教授(病理学)のメッセージも推薦します。

以下引用(下線筆者)

I. 自立・而立
 翌27年に厚生技官に任官し,はじめのうちこそ,医長の大矢全節先生からご指導を受けたが,先生は英語,ロシア語の医学辞典,フランス語の医学史の執筆等にご多忙であったので,実情は自分1人で勉強しながら診療していたようなものであった.
 毎日の外来診療も皮膚病は診断,治療とも目でみて,手で触れることができるし,学会,地方会,集談会には必ず演題を出して出席し,討論に耳を傾けて勉強した.当時は病理組織などは誰もが知らなかった.手術はインターンの延長という点もあって,外科,整形外科,婦人科の手術を手伝い,教えてもらって勉強した.
 毎日100人以上の患者を診察し,昼食は2時,3時を過ぎ,猫に荒らされて何もなくなっていたこともあった.手術はほとんど毎日2・3例あり,腎臓摘出の日は必ず泊まり,前立腺の手術には難儀したが,まがりなりにも一人前の皮膚科泌尿器科医であったと思う.

 忙しい病院勤務の合間を縫って,語学が苦手の私が,日仏会館の夜学に通い,大学とは違って,年齢も社会的身分もいろいろな人たちと,楽しくフランス語の勉強をしたが,のちのちフランス語の論文を書くのに役立った.
 自分勝手な興味からWassermann反応について実験していたところ,それを実験家兎梅毒でやってみろと山本俊平教授にいわれ,睾丸にスピロヘータを接種した家兎を提げて,教室のWassermannの天鷲技官が実験の手伝いにきてくださったりして,なんとか学位論文に辿り着くことができたが,50ページに余る論文の掲載料を払うことができないし,医長の大矢先生と診療上の意見の相違もあって,7年後にはるか僻地,四国の宇和島に赴任した.

IV. 13年目の新人医局員
 京大本部直属の保健診療所の外科・皮膚科助手の席が当てがわれ,13年目の新人医局員の生活が始まった.それまでの経験等は一切捨ててまったくの新人として,若い人たちの中に埋没した.それでも自分の懐の痛まない研究に従事させてもらい,新しいテクニックを用いての組織化学の論文を国際誌J.I.D.に掲載できた.
 しかし,このテクニックを血液に応用して得た新しい知見の論文が,イギリスの血液学の雑誌に受理され掲載が決まっていたのに,最終段階で写真にゴミがついているとして拒否されたのは痛恨の極みで,標本・資料保存の重大さを身にしみて感じたが,教室には顕微鏡写真を撮れる者がなく,あらためて日本光学から顕微鏡の構造,光軸の合わせ方,絞りの調節,レンズの磨き方等を教えてもらったりもした.島田での経験もあり,いろいろな勉強会を企画,実施した.
 保健診療所の講師は辞退し,少し遅れて皮膚科専任となり,講師となったが,教室員の一番最後に名札がかかっていた.舞い戻りのアウトサイダーの私が医局をまとめるのはむずかしいことであった.かの大学紛争時,教授は会議会議でほとんど不在,助教授は敵前逃亡同然の長期病気欠勤という状況で,「貴君が大学にいる意義は何か」といわゆる“教室会議”で吊るし上げられたりもした.「皮膚科紀要」の編集,これを維持するために,次々に治験論文をまとめ,また若い人たちに症例報告を書いてもらうのもたいへんであったが,真菌専門の渡辺講師が赴任されてからは,関西の真菌の勉強会を主催せざるをえなくなり,付け焼刃的な知識しかない私にはさらにたいへんであった.
 大学に在籍するかぎり,自分自身の研鑚もさることながら,組織の維持が重要であることは論を待たない.紛争を機に,自分にとっても組織にとっても意義が薄れてきたので,身を引くべきであろうと,いろいろ批判はあったが,大阪赤十字病院からの招聘にこたえて,赴任することとなった.

V. 気が狂ったか?
 短期間ならなんとかなるだろうと,満員電車で往復4時間という過酷な通勤に耐えて大阪まで通った.当時,大学では研究はもちろん,勉強会などもすべてストップしていたので,天理病院の渡辺医長,神戸市民病院の宋医長と相談し,交代で臨床の勉強会を企画したが,結局,私の大阪赤十字病院で毎月実施することになり,計70回余,この3病院,京大病院のほかからも大勢の若い皮膚科医が症例,標本,スライドなどを持ち寄って参加し,賑やかに実りの多い勉強会が行われた.
 大学病院では構成員の専門性が重視され,すべての疾患に目を向けることは不可能であるが,この病院では部長である私がすべてを統括していたので,おそらく大学よりも豊富ないろいろな症例のすべてに目が届き,もちろん,責任も重大であったが,たいへん勉強になった.
 前から電顕には関心があったが,京大では病院に1台しかない電顕の皮膚科の割り当てが減るので,邪魔をしないように遠慮していた.この病院には電子顕微鏡があるが,病理の専門家以外,あまり利用されていないことがわかったので,早速,この電子顕微鏡を使わせてもらうこととなり,京大病理学教室の電顕テクニシャンの第一人者藤岡氏に出張指導をしてもらう話がまとまった.40歳を過ぎて,一から新しいテクニックを,しかも電顕には最悪の気候時に始めるということで,大方の批判は気が狂ったのではないかということであった.包理など標本をつくるのは一緒に習い始めた女医の吉永さんのほうがずっと上手なので一任し,私は機械の操作がなんとかできるようになると,多数症例についての観察,撮影,現像,スライドづくりなどに没頭した.一方,まだ免疫学的意義の確立していなかった薬疹の原因,その他の抗原刺激によるリンパ球幼若化現象についても検討していたが,PHAによる幼若化現象リンパ球の微細構造の観察をさらに進めて(すでに手掛けられていた上皮系,色素細胞系科の電顕的研究の後追いは空しいので)真皮について観察はしてみてはどうかと考えたが,真皮には線維芽細胞,組織球,細網細胞,リンパ球など種々の酒類の細胞があり,同定が不可能なので誰も手をつけないのだと聞かされた.しかし,敢えて真皮の浸潤細胞の電顕的観察に,また,内科はもちろん病理の人たちにもT細胞リンパ腫に関する認識の過ちから,菌状息肉症,Sezary症候群の独立性が危うくなっていたこともあり,究極的には皮膚のリンフォーマの研究に発展した.
 医師,看護婦のストライキに嫌気がさし,この病院をなんとか脱出したいと考えていた時,各県に1医大という構想が発展して新設医大ラッシュが始まり,奇しくもその網の一端に引っ掛かって浜松医大の教授に内定した.
 留学の経験がまったくないので,有給休暇のすべてをまとめてとらせて欲しいと無理をいい,1ヵ月あまり,アメリカの大学,学会を歴訪できたのは幸いであった.一方,講義のためのスライド,組織,医局員の勉強のための医学雑誌のバックナンバー,教本の整備など,新しい教室づくりの準備も結構たいへんであった.

VI. これが教授というものか
 昭和52年4月,浜松医科大学教授に任官した.官舎に転入,居住が指定され,毎週会議だけはあるのだが,仕事をする場所も,居る場所もない,という状態がどのくらい続いただろうか.何をしていたのか,いまでは何も覚えてはいない.
 器具等は,順次予算措置が講じられて,いずれは購入されるのだとはいっても,やっとでき上がったがらんとした研究室には,学生実習用の顕微鏡が1台と,ミクロトームがぽつんと置いてあった.病院で診療が始まったのは11月が終わるころであった.これで一体何ができるというのだろうか? 私自身は何もできなくても仕方がないとして,一緒に赴任した田上助教授はどうしていただろうか,なんとも申し訳のないかぎりであった.
 50歳を過ぎて,とくに私のようにどさ回りをしてきた者が,臨床経験や学生の教育などでは指導力を発揮できるとしても,研究の面で終始医局員をリードし続けることはむずかしい.幸いにも,私とコンビを組んだ田上助教授は組織学的診断でも,研究でも京大皮膚科のナンバーワンであったので,とくに研究面での教室の運営をすべて彼に任せて,私は,大学は医師養成のための教育機関であるという名目のもと,学生の教育に力を注ぐこととした.あるいは迷惑であったかもしれないが,彼は思う存分に腕を発揮して,昭和59年に東北大学教授に栄転した.しかし,私は医学教育にのめり込んで,教育担当の副学長になってしまい,後任の瀧川助教授には,教室全体の運営までも背負わせてさらに迷惑をかけることになってしまった.early clinical exposure,新しい医学概論,死の医学の教育などを提案したが,世間より一回り早過ぎたかも知れない.少し間を置いて次にまた,医療担当副学長・病院長に就任し,無能のまま赤字の解消に専念せざるをえぬはめとなり,もはや皮膚科教授としては完全に失格であった.
 不毛の土地で,静岡地方会を単独で運営するため,各地の方々を招いたり,免疫セミナーと称する若手研究者の勉強会を開いて自由に討論する雰囲気をつくったり,後には皮膚リンフォーマ研究会という病理,血液内科の人たちと一緒の学会をつくったりして,視野の広い臨床家,研究者の育成に努力したつもりである.
 たとえ教授が非力・無能であっても,優秀なスタッフが思う存分に腕を振るえば,その教室・医局はどんどん成長し,発展するということは,この浜松医大皮膚科の実体をみていただければわかると思う.
静岡県下のほとんどの病院を関連病院として配下に置いているし,個々の業績をフォローすることはとてもできないが,われわれの開発した「高周波による皮膚角層水分測定装置」を提げてデビューした田上教授は文字どおり世界の皮膚生理学の第一人者であるし,瀧川教授は国際皮膚リンパ腫学会会長として活躍,森口教授(形成外科),古川教授,岩月教授も川崎医大,和歌山医大,岡山大学でそれぞれ活躍している.
2012年